「読み」「語り」「考える」。しかも仲間との研鑚の中でそれを実践することは自己の中にあって隠れていた不条理や可能性の発見の契機となります。その手段として、年間少なくとも100冊の本を「読み」、「語り」「考える」作業を繰り返しましょう。
どうした私たちはいまだに『死刑 消え行く最後の野蛮』(正木亮・1964年)を残しているのでしょう? 数々の冤罪誤判を経験しながら、なぜ私たちは刑法や刑事裁判が「安全な社会」を裏打ちし、事件の「真実」を解明するものだという神話とをいまだに訣別しえないのでしょう? 刑法は端的に国家/社会の「暴力」にほかなりません。そもそも「正しい暴力」がありうるのか、あるとすればそれはどのような「力」なのか? 様々本を読みながら、刑法を通じて「人間」と「社会」について考えてみましょう。
自分を否定されることはとても怖くて不愉快なことだ。初めてそれを身をもって知ったのがゼミだった。自分の全否定。それは今でも怖くて不愉快だけど、「全否定」の後にもやっぱり、「でもね…」という自分がいる。それが新しい自分なのか、それまでの自分なのか、不愉快な考察の継続がぼくのゼミだ。
ゼミ履修のきっかけは、「ゼミは楽しい殺し合いの場」という先輩の物騒な言葉でした。今、私はゼミというスリリングなフィールドで、仲間との討論を通じて「殺し、殺される」日々を過ごしています。「殺された」自分とは異なる「新しい自分」の発見。その一つは、「馴れ合い」のない「友人」を発見した自分でした。